人的資本は働く人と企業との双務的エンゲイジメントだ

人的資本は働く人と企業との双務的エンゲイジメントだ

森本紀行
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企業は、働く人に対して、よりよくエンゲイジメントしようとし、それに応じて、働く人も、よりよく企業にエンゲイジメントしようとするとき、人的資本の目的が達成されるのです。
 
 人が働き始めたときには、資産も負債もないようにみえますが、将来の収入と支出とがあるのですから、働き始めた人の理論的な貸借対照表においては、資産側に総収入の現在価値があり、負債側に総支出の現在価値があって、両者は一致しているわけです。では、資本はないのか。そこで、逆に考えて、働く人に理論的な資本があるとすれば、それは、総収入の現在価値が総支出の現在価値を上回る部分になるはずです。
 当然に、人の死後に遺産があれば、総収入の現在価値は総支出の現在価値よりも大きくなりますが、それは結果的に起きることであって、将来への期待として、死後に財産を残す目的をもって働き始める人はおらず、仮に、そうした変わった人がいるとしても、遺贈という特殊な支出計画をもつ人にすぎないのです。故に、遺産は働く人の資本にはならず、働く人の資本を考え得るとしたら、支出のうちの特別な一部の現在価値になるはずです。
 
自己実現のための将来支出の現在価値が働く人の資本だということですか。
 
 総収入と総支出の絶対額は、人によって非常に大きく異なるでしょうが、収入が多ければ、自然と支出も多くなるように、収入に対応して、生活に必要な支出が決まり、生活上の決まった支出には債務性があるので、その現在価値は負債になるわけです。この必要な支出を超えるものは、自分自身のための趣味等に対する支出であり、いわば自己実現のための支出であって、その現在価値こそ、資本と呼ばれるべきものです。
 この負債と資本の区別は、企業の貸借対照表においては、負債は利息の支払いと元本の弁済が確定したものであるのに対し、資本には元本の弁済がなく、配当の支払いは任意であることに対応しています。つまり、企業の資本は、一時的な損失を吸収して、企業経営の自由裁量を確保するものであって、同様に、働く人の資本は自由な自己実現を可能にするものなのです。
 
企業の資本には出資者に対する責務を伴いますが、人の資本において、どのような責務を人は負うのでしょうか。
 
 人は、家族、地域社会、勤務先、趣味の同好会、同窓会などの多種多様な社会に重層的に帰属していて、それぞれの帰属社会に対して、そこで生きて活動した証跡を残すために、様々な方法で参画し、寄与し、奉仕し、貢献し、没入しますが、そうした社会への関与、英語でいえばエンゲイジメント(engagement)こそ、人の負う責務であり、この責務を果たすことこそ、自己実現なのです。
 また、エンゲイジメントには約束という意味があり、約束は履行すべき責務を伴います。自己実現のための将来支出の現在価値が人の資本になるのは、人は、現在の時点において、将来に向けて、社会に対するエンゲイジメントを約束しているからであり、その約束を果たすことこそ、自己実現であり、社会のなかで人が生きることの本質だからです。
 
企業の資本は利益を創造しますが、人の資本は何を創造するのでしょうか。
 
 趣味への没頭、社会奉仕活動、家族との団欒、友人との交友などを考えれば、人は、エンゲイジメントを通じて、幸福になると思われますから、人の資本は幸福を創造するといえます。そして、幸福度は金銭で測定され得ないのですから、人の資本の金額は意味をなさず、趣味へのエンゲイジメントのように、支出を大きくすると、幸福度が増すこともあれば、逆に、仕事へのエンゲイジメントのように、支出を伴わないこともあるのです。
 
仕事へのエンゲイジメントは幸福を創造するでしょうか。
 
 働くことは、収入を得るための役務の提供であると同時に、幸福になるためのエンゲイジメントです。そこで、一方の極には、収入を得るために働き、その余暇で社会へのエンゲイジメントを行う人があり、他方の極には、社会へのエンゲイジメントとして働き、その結果として収入を得る人がいます。
 人は、この両極の中間で、双方へ様々に異なる傾斜をかけて働くわけであって、その傾斜のかけ方が働き方なのです。そして、人生の航路において、人は、より幸福になるために、働き方を変えていき、様々なエンゲイジメント対象の優先順位を変えていきますが、この幸福のための選択こそ、生きることなのです。
 
企業経営における人的資本とは、どのようなものでしょうか。
 
 企業経営における人的資本は、基本的には、働く人の働き方を規定する様々な人事関連諸制度の総体であって、働く人にとっては、目に見えない働く環境です。働く人は、様々に異なる働き方のもとで、人的資本を活用しますが、企業は、生産性の向上と革新の創発を目的として、人的資本を提供しているのですから、企業経営の要諦は、働き方に人的資本を適合させることで、その目的を達成することになるわけです。
 
人的資本と働く人の資本とは、どのような関係にあるのでしょうか。
 
 多くの人にとって、エンゲイジメントという言葉で最初に思いつくのは、婚約でしょう。婚約は、結婚をする二人の相互の約束であって、双務性をもちます。人的資本と働く人の資本とを媒介するものは、この双務的なエンゲイジメントです。つまり、企業は、人的資本を提供することで、働く人にエンゲイジメントをし、その見返りに、企業に対するエンゲイジメントを働く人に要求しているわけです。なお、当然に、これはエンゲイジメントの等価交換です。
 例えば、企業の外に自己実現の機会を求める人にとっては、企業は安定的に収入を得る場所にすぎませんから、自由度の高い働き方を許容する制度は、魅力ある人的資本になり、企業は、この魅力を提供することで、働く人にエンゲイジメントし、働く人に対して、そのエンゲイジメントとして、決まった時間における高い作業効率を要求しているわけです。
 このエンゲイジメントの双務性と等価性において、企業は働きやすさと公正な報酬を約束し、働く人は報酬に見合った貢献を約束しているのですが、実は、双方の約束の履行は最低限のことにすぎないのです。企業は、働く人に対して、よりよくエンゲイジメントしようとし、それに応じて、働く人も、よりよく企業にエンゲイジメントしようとするとき、人的資本の目的である生産性の向上が実現するわけです。
 
企業の内での自己実現を目指す人に対して、どのようなエンゲイジメントを企業は行うのでしょうか。
 
 企業にとって、人的資本の主たる機能は、企業のなかで自己実現するように、働く人を促し、動機付けることになります。人的資本のなかで最も重要なのは、この動機付けの体系としての人事関連の諸制度なのであって、とりわけ、大胆な登用と権限委譲、将来の貢献期待に対する先行的な報酬、企業の業績に連動した報酬、自己研鑽等の魅力ある機会の提供、職場での対話などが重要になるわけです。
 企業は、この動機付けの体系を通じて、働く人に対するエンゲイジメントを行うのですが、そこには、人的資本の目的に応じて、二つの様態があります。第一は、生産性の向上を目的として、処遇や登用等を通じて、働く人に期待するというエンゲイジメントであり、第二は、革新の創発を目的として、自由な活動の機会の提供を通じて、働く人の創造を促すというエンゲイジメントです。
 
企業のエンゲイジメントに対して、どのように働く人は反応するのでしょうか。
 
 働く人は、期待という企業のエンゲイジメントに対しては、期待に応じた貢献をするようにエンゲイジメントします。しかし、企業からすれば、期待通りの貢献は当然のことなので、期待以上の貢献を引き出すように、人的資本の設計に工夫を凝らすわけです。
 働く人のなかで、企業の提供する活動の自由を享受し、真の創造をなし得る人は稀ですが、企業にとっては、次世代の経営の担い手として、非常に重要な人材なのです。しかし、このような人材は、自分自身に対してエンゲイジメントをしていて、それが偶然に企業に対するエンゲイジメントになっているだけですから、企業としては、自社の外に飛び出さないように、飛び出しても、関係を継続できるように、人的資本を設計するわけです。
 ≪ 関連する論考をご紹介いたします ≫
働く人が自分自身を現物出資すると人的資本になる(2025.2.27掲載)
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給与や賞与よりも働く環境と企業年金が重要であるわけ(2020.4.9掲載)
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(文責:坂口)

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森本紀行

森本紀行(もりもとのりゆき)

HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長

東京大学文学部哲学科卒業。ファンドマネジャーとして三井生命(現大樹生命)の年金資産運用業務を経験したのち、1990年1月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、企業年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。年金資産運用の自由化の中で、新しい投資のアイディアを次々に導入して、業容を拡大する。2002年11月、HCアセットマネジメントを設立、全世界の投資のタレントを発掘して運用委託するという、全く新しいタイプの資産運用事業を始める。